2021年、今年は福井のめがね産業の創始者「増永五右左衛門」の生誕150年という特別な年です。国産の眼鏡の約95%が生産される福井県で、初めてめがね作りを始めたのが「増永五左右衛門」。めがね作りが始まって今年で116年たった今でも、五左右衛門の想いを受け継いでめがねが創られている事に感謝をすると共に、めがねの故郷「福井」の事、そしてそこにあるストーリーを是非とも多くの皆さんに知っていただきたいと思います。

黒澤時計店 黒澤輝

福井のめがね産業の創始者
増永眼鏡の創業者

増永五左右衛門

GOZAEMON MASUNAGA 1871 - 1938
 

雪深い地元の経済を救うため、
めがね作りに立ち上がったのが始まり。

 

明治4年、増永五左右衛門は、足羽郡麻生津村(現在の福井市生野町)にて、豪農として知られた増永家の長男として生を受けました。明治20年に家督を相続すると、25歳で結婚して幸福な家庭を築きました。どっしりとした性格の持ち主で、村人からの信頼は厚く、常に村の経済について考えていたそうです。しかしかつての福井では冬にたくさんの雪が降り、田畑が少なく、これといった特産物は生まれない中で、庶民の生活は貧しいものでした。
 
五左右衛門は、なにか産業を興せば、生活水準が上がり出稼ぎの必要もなくなるのではないか、と考えていました。そんな時、五左右衛門の弟・幸八は、めがね作りを提案します。「麻生津のような寒村では、とても農業一本では生活が成り立たぬから、冬場の手内職にめがね枠を作らせ、そのうちだんだんと上手になったら専業に切り替えても良いではないか。いや、子どもたちにこの技術を仕込めば、大阪でいくらでも引き受けてくれるところがある。これらの日本に教育が普及し、読書をする人が増えれば『めがね』はなくてはならぬものになる。ぜひ『めがね作り』をやってみよう」。しかし当時、めがね産業はまだ一般的なものではなく、五左右衛門はなかなか承知しませんでした。それでも、幸八の熱心な説得によって、実行に移すことに。明治37年の暮れのことでした。 

 

福井市生野に建てられた増永五左右衛門翁顕彰碑の庭園
MAP

写真:増永五左右衛門

 

写真:増永幸八

明治38年6月1日、「増永1期生」結成。
福井のめがね産業の出発点。

 

明治38年は、日本軍が日露戦争で勝利を重ねており、大変景気の良い年でした。五左右衛門は、村の腕利きの大工であった増永末吉を口説いて大阪に連れ出し、めがね職人の米田与八に手ほどきを受けさせました。同時に、本格的に福井で眼鏡作りを始めるため、与八を福井に呼び寄せることを考えました。この時代、福井でのめがね製造はまだ信用がおかれておらず、与八や職人たちの勧誘には苦労しましたが、それでも諦めず根気強く説得を続けた結果、与八と妻、弟子1人が福井へ。職人も集まり、「増永1期生」の結成に至ったのです。明治38年(1905年)6月1日、福井のめがねづくりが幕を開けました。(1905年:増永眼鏡創業)

 

 

その後も、優れた製品作りと販路の開拓のため、腕のいい職人から更なる知識と技術を学ぶ必要がありました。そこで呼び寄せたのは、東京で名工として知られていた、豊島松太郎。めがね製造の先進地であった東京では、既に分業体制が敷かれており、メッキの研究や、赤銅に代わる鉄製品の生産、セルロイド製のめがね枠の試作も明治40年頃には実施されていたようです。東京仕込みの腕を持つ松太郎のおかげで、福井のめがねづくりは大きく進歩を遂げます。

 

増永五左右衛門の信念

「仕事は人である 人を作るには教育」


工場2階には夜間学校を開き、人材を育成しました。
 

 
   
 

「帳場制」の下で腕を磨き合った職人たち。
品質は飛躍的に向上。

 

福井でのめがね作りは、最初から順調にことが進んだわけではありません。材料などを手配する資金をどうするか、商品をどう売るかなど、たくさんの問題を抱えていました。五左衛門と幸八は、顧客からの要望に応えられるだけの品質を実現することに頭を悩ませ、眠れぬ日が続きました。実際、せっかくつくった商品を送っても、気に入られずつくり直しを要求されたこともありました。また、工場を拡張して沢山めがねをつくっても、売り上げは思うように伸びず、一時は資金が底をつく状況に陥ります。職人たちは、商品が売れるためにはさらに品質を高めなければいけないと、より一層努力しました。

 

村民の、特に次男や三男にめがね枠作りを学ばせた。
 

 

品質の向上に大きく貢献したのが、当初から取り入れていた「帳場制」。「増永一期生」を親方(責任者)とする職人グループを作り、その下に弟子たちを置くという製造体制です。大将である五左衛門はそれぞれの親方へ仕事を注文し、出来上がっためがねを一手に引き受けます。当時の職人たちは、もっと立派なものをつくりたい、自分の手で新しいものを創り出したいといった純粋な熱意に満ち溢れており、帳場同士で腕を競い合いながら技術を磨いていきました。職人たちの熱意を引き上げた「帳場制」により、福井のめがねの品質は飛躍的な向上を遂げました。

 

 

増永眼鏡株式会社

 
日本におけるメガネフレーム生産の約90%以上を占める一大産地、福井県鯖江市。その歴史は、明治38(1905)年、創始者・増永五左右衛門(増永眼鏡初代)の手によって幕を開けました。以来、増永眼鏡は、産地の旗手として理想のメガネフレームを追求し、徹底して品質と技術の向上に努め、常に自社ブランドの商品作りに磨きをかけてきました。創業より100年以上の時を経た現在でも、デザインはもちろん、パーツの金型製作からメッキ・表面処理などの最終仕上げまでの一貫生産にこだわり続けるマニュファクチュールブランド。

 増永眼鏡には、以下の社是が掲げられています。
 

「当社は、良いめがねをつくるものとする。できれば利益を得たいが、やむを得なければ損をしても良い、しかし、常に良いめがねをつくることを念願する」

 

 
雪深い地元の地場産業として五左右衛門が始めためがねづくりは、帳場制によって高い品質を生み出し、良いものづくりの道のりを今でも歩まれております。

 

株式会社 マコト眼鏡

 
 マコト眼鏡 の創業者の増永誠(現会長)さんは「増永五左右衛門」の長女の息子さん。ですので「増永五右衛門」さんの外孫に当たります。現会長の増永誠さんは2代目増永五左右衛門に師事し、長い間「増永眼鏡」にて修行ののち1970年に独立の上「マコト眼鏡」を設立しております。
福井県に眼鏡産業の礎を築いた始祖、増永五左右衛門の血を受け継ぎ、誠実な姿勢で眼鏡を作り続けております。腕利きの職人を育て上げてきたマコト眼鏡だからこそできるものづくりを目指し、職人の手で1本1本削られ、磨き上げられたものだけが、マコト眼鏡のオリジナルブランド「AYUMI 歩」と呼ばれます。日本でも数少ないセルロイドを素材としたハンドメイド・アイウエア・ファクトリーです。
 

増永五左右衛門の精神を引き継いで眼鏡を作っておられる増永誠会長がよくお話しするお言葉が、
 

「私たちが、たとえ何百枚作ったとしても、
掛けるお客様に届く眼鏡は1枚。
だから、1枚たりともおろそかに作ってはいけない。」

 
師である五左右衛門さんから受け継がれてきた「増永イズム」が十二分に伝わるお言葉通りの「歩」には、眼鏡作りへの想いが込められております。
 
 
Fukui Optical Association 福井県眼鏡協会 YouTube チャンネルより